Bagatelle ― please,take a breath of fresh air.
バガテルは、クラシック音楽でピアノのための性格的小品の一つ。 「ちょっとしたもの、つまらないもの」といった意味である。
 名称からして、大曲の作曲過程でこぼれ落ちた楽想や、ふとした思いつきで手すさびとして書かれたものという意味合いが強い。

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母の記録 08:55
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     記録続き。
    2010/1/15 5:08

    【母、帰宅。】 非公開記事

    小さなツボに入って
    やっとお母さんが家に帰ってきました(*´ω`*)
    私の大好きなお母さん、おかえりなさい。

    さあ、お母さんの記録。



    昨年の10/17、お母さんは胃腸病院に入院しました。
    家から車で10分程度のところにある病院で
    病院嫌いのお母さんが、先生の診察をうけ、信頼し
    「ここで私は病気を治す」と決め、選んだ病院でした。

    入院前、不安で泣く私に、お母さんは
    「お母さんは必ず帰って来るから。これは100%だよ、約束する。」
    そう言って約束してくれました。

    約2週間の検査の末、複数の癌が見つかりました。
    既に大きくなっていた癌のせいで貧血の酷かったお母さんは
    先に体力をつけ、輸血をおこない、11/5に手術を行いました。
    大腸癌、胃癌、大腸癌の肝臓への転移があったので
    大腸癌と胃の半分くらいを切除しました。

    手術は無事成功しましたが
    大腸の癌は約6cmあり、大腸壁を突き破って
    癌細胞をお母さんのおなかに撒き散らしていました。
    他にも炎症をおこしているところがたくさんあり
    肝臓の癌もたくさんありました。
    術後、主治医の先生に呼ばれた私たちは
    「一刻も早く抗がん剤の治療をしたいです。
    もしなにもできなかったら、余命は大体3ヶ月位だと思います。
    抗がん剤の治療ができたとしても、半年〜1年位だと思います。」
    と聞かされました。

    お母さんは、主治医から、肝臓転移までは教えられていました。
    けど、術後のお母さんに余命を言うことはやめたほうがいいということになり
    何も言わずに応援することになりました。

    手術の次の日から、歩く練習が始まりました。
    苦しいながらも、お母さんは一生懸命歩いていました。

    けど、術後の経過がよくなく
    高熱がでたり、嘔吐が続きました。
    検査の結果、胃に縫合不全があることがわかりました。
    他にも、腹水がたまったり、肺に水がたまったりしたので
    水を抜くチューブがお母さんの身体に入りました。

    一刻も早く食事をはじめ、体力をつけ、抗がん剤治療をしたいのに
    絶食の日々が続きました。
    お母さんはみるみるうちに痩せていきました。

    なかなか前に進まない現実に不安になりながらも
    お母さんはがんばっていました。

    そして、縫合不全の原因が分かりました。
    胃に、検査では見えなかった小さな潰瘍がありました。
    そのせいでお母さんの胃はなかなか復活してくれず
    潰瘍の治療をしたら、縫合不全は治りました。

    けど癌はどんどんお母さんの栄養を吸い取って
    首元にもふくらみが出てきていました。
    リンパへの転移でした。

    食事を開始し、がんばって食べていたのですが
    進行した癌のせいで食事も思うように食べられず
    12月末、私たち家族は主治医に呼ばれ
    「今の状態では抗がん剤治療はできません。
    もう、ホスピスケアしかできません。」
    と告げられました。
    この頃のお母さんは、長い病院生活で疲れていたからか
    自分の名前を間違えて書くようになっていたり
    会話もままならなくなっていました。
    術後に言われた
    「抗がん剤治療ができなければ、余命3ヶ月」
    その道を歩んでいる現実がそこにありました。

    既に2ヶ月が経ち、残り1ヶ月。
    もう今から余命を言っても、ショックで余命を縮めるだけだと
    結局最期まで余命を言うことはせず
    できるだけ痛みと苦しみを取り
    最期まで闘い抜くだろうお母さんを支えることになりました。

    主治医の先生は、お母さんにお正月の一時帰宅を進めてくれました。
    けどお母さんは
    「今帰っても、私は身体がしんどくてなにもできない。
    だから、もう少し元気になってから帰りたい。」
    そう言って、帰らないことを選びました。
    まだ諦めていないお母さんの気持ちを
    私たち家族は、受け止めるしか道がありませんでした。

    12/31、1/1と、親戚が少しずつ見舞いに来てくれました。
    お母さんは気丈に、ベッドに座って話していました。
    けど、1/1の夜、右半身が動かなくなりました。

    次の日の朝は、動いていました。
    脳への転移か、脳梗塞か
    三が日で検査はできず、不安な三が日を過ごしました。

    検査の結果、脳への転移はありませんでしたが
    血栓ができやすくなっているんだろう、ということでした。
    動きにくくなって、介助が必要になった身体のためや
    もう先が長くないということを家族に教えるかのように
    お母さんは個室に移りました。

    そこからのお母さんは、日に日に弱って行きました。
    それでもお母さんは、相変わらずお母さんらしくありました。
    唇が乾くからとリップを求め、家族に塗らせ
    水を飲むと嘔吐してしまう身体でしたが
    吐き気止めを打ってもらい、水を飲み
    「おいしい!」と声をあげていました。

    お母さんは常に
    「今の自分にできる、一番したいこと」をしていたと思います。

    今私は食べられない。
    けど、薬を打ってもらったら水は飲める。
    水が飲みたい!
    話せる言葉はもう単語くらいだ
    「水!」
    水が飲めた!
    「おいしい!」

    私は年末から毎日病院に通い
    必死でお母さんの生き様を記憶しようと努めました。

    けど、1/4頃には、身体への負担を減らす為、鎮静剤で眠るようになりました。
    だから、私が聞いたお母さんの最期の言葉は
    水を飲んだ「おいしい!」でした。

    そこからは、毎日逢いに行っても
    酸素マスクをしてぜえぜえ呼吸をしながら眠るお母さんを見るだけでした。
    眠るお母さんは
    それでも「今の自分にできる、一番したいこと」をしていました。
    必死で酸素を取り込み、呼吸をしていました。
    瞼も閉じきらない、身体も動かないお母さんは
    それでも一番したい、生きる為の呼吸を諦めませんでした。

    1/5、仕事が始まり
    夜しか病院に行けなくなりました。
    それでもお母さんは毎日私に
    一生懸命闘う姿を見せ続けてくれました。

    血圧100/50台、脈拍150〜200程度の日々が続きました。

    そして、1/12
    お父さんの携帯に、病院から電話が入りました。
    「血圧だけですが、下がってきました。
    いつどうなるか分からないので、傍にいてあげてください。」
    そう言った内容の電話でした。
    私とお父さんは会社を出、身内に少し連絡し
    病院へ向かいました。

    お母さんの血圧は60/30台にまで落ちていました。
    呼吸は浅く、とても苦しそうでした。
    手足はパンパンにむくみんでいました。
    もう鎮静剤は投与されておらず
    それでも意識のない状態でした。

    私は、春菜を呼びました。
    生きているうちにお母さんにあってほしいと
    すごくそう思ったから。

    1530頃病院に着き、お母さんの傍にずっといました。
    私も胃が痛かったので、お母さんの主治医の先生の診察を受け
    春菜の到着を待ちました。

    無事春菜も到着し
    お母さんの顔を見て、応援して
    二人で夕食を食べに出ました。

    うどんを食べているとき、お父さんから電話があり
    「すぐ帰ってこい」と言われました。
    うどんを放置、会計し、病室へ戻りました。
    お母さんは黄色い顔をし、脈拍が停止寸前でした。
    手を握って「お母さん!」と声をかけていましたが
    「カハッ、カハッ」と数回浅い呼吸をして、脈が止まり
    何度声をかけてもお母さんの身体のどこも動かなくなりました。

    診察をしていた主治医がかけつけ、確認をし
    20時3分、お母さんは死にました。
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